坪井真理子(1966年入学・医)

私は今から半世紀あまり昔、1966年に京都大学医学部に入学しました。入学後、すぐに音楽研究会に入り、部名にある「研究」らしき事は全然せずにもっぱらピアノを弾いていました。約2年後に大学紛争が始まり、医学部では長期にわたってストライキを行い、また全学でも時計台本部を逆封鎖してゲバから守ったとか、のちの時代の京大生には想像しにくいような事態が次々と生じましたが、それを詳しく述べている余裕はありません。ともかく、そのおかげで私はピアノに打ち込む時間が十分にあって、ずいぶんレパートリーを拡げることができました。

写真は1971年に京都文化芸術会館で開かれた音研定演で、ラヴェルの夜のガスパールを演奏しています。
―中略―

 


さて、この原稿の主題である「なぜ医師からピアニストに転向したのか」を述べるには、時代をさらに遡って幼少時代から始める必要があります。
―中略=


幼稚園のエヴリン・ウェストマン園長先生(以後は「園長先生」と略します)はカナダ人のシスターでしたが、希望する園児にピアノの手ほどきをしてくれました。私の両親はどちらも楽器の演奏はできませんでしたが、父が大学時代にコーラス部に属していたこともあって音楽が好きだったので、私はピアノを習えることになったのです。
―中略=


私が通っていた大阪市立苗代小学校は大変音楽に熱心な学校で、音楽に才能のありそうな子供を集めた合唱団とオーケストラがありました。音楽教育界の重鎮だった池田富蔵先生がおられたおかげだそうです。私はソプラノ・アコーディオンを弾いてオーケストラのコンサートマスターを務め、学校間の器楽コンクールに出場して関西で優勝するなど、合奏の楽しさを思う存分体験しました。また、5年生と6年生で担任だった石川浩先生は合唱団を率いておられる音楽大好きの先生で、特にベートーヴェンに傾倒しておられ、先生が足踏みオルガンでヴァイオリンパートを受け持ち、私がピアノパートを受け持ってクロイツェルソナタを演奏したこともあります。このように音楽にどっぷり漬かっていた私は、当然、将来はピアニストになるつもりでした。
ところが、子供の私には想像もつかなかった障害に出会います。
=中略=

次に入った市立阿倍野中学は、小学校と違って音楽には特別熱心でないかわりに勉強には大変熱心でした。3年生の時の担任は数学の山田文夫先生で、先生は私に「医学部を目指しなさい」と言われました。確かに、あまり裕福でない家庭の女の子にとって、医師は確実で魅力的な職業です。「私は医学部」と思い始めました。
―中略―


高校2年になると、当時ピアノのレッスンを受けていた作曲家の物部先生が「君が東京芸大に入りたいならピアノの教授を紹介してあげよう」と言われました。当時、有名音楽大学に入るには、その大学の先生に師事していないといけない、そのために毎週、東京まで通わないといけない、というのが常識だったのです。勿論私にはそんなことは無理だし、やるつもりもないので、「いいえ、芸大にいくつもりはありません」と断り、その後しばらくしてピアノのレッスンを受けることもやめました。既に医学部、医学部と思っていましたから。
―中略―


京都大学医学部を卒業後、眼科学教室に入り、当時講師だった本田孔士先生(のち教授、京大病院長)のもとで視覚電気生理学を研究して博士号を取得、フンボルト奨学生としてドイツにわたり、バート・ナウハイムのマックス・プランク研究所で視覚の研究を行いました。
さて、この研究所において私の指導者であったエバーハルト・ドット教授は音楽がお好きで、シューベルトやシューマンの歌曲をか細いながらも美しいテノールで歌われる方でした。私が研究所内に住んで夕刻にはそこでピアノを弾くのを喜ばれ、しばしば一緒に演奏しました。
ドット教授はバイエルン北部の小さな町に別荘をもっておられて、その町クラインホイバッハの町長さんは彼の友人でした。教授はそこで私が演奏会を開けるようにと骨を折ってくださり、更にはそれを契機に、フランクフルト音楽院のヨアヒム・フォルクマン教授のレッスンを受けられるように計らってくださいました。
この時のレッスンの素晴らしさに感激した私は、音楽院に入って本格的にピアノの勉強をしようと決心したのです。当時ドイツでは、音楽院の実技入試に好成績なら所持金とは関係なく学生になることができ、授業料は無料でした。
―中略―


当時、ドイツの多くの音楽院で年齢制限を設けていて、30歳を超えて受けられるところは多くなかったのですが、フランクフルトでは年齢制限の導入を考慮中でした。私は文字通り、滑り込みセーフだったのです。
これでお分かりでしょうか。私はもともとピアニストになりたかったけれど、条件が揃わなかったために医師の道を選びました。でも、いやいや選んだわけではありません。医師という素晴らしい職業を全うするつもりでした。しかし偶然のなりゆき、というより運命に導かれてドイツで音楽を勉強する機会を得ました。そして、35歳にして学生に逆戻りして音楽の勉強に打ち込んでいる間に、「本当にやりたかったこと」は何だったのか、わかったのです。